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炭坑記録画とその背景

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明治期の筑豊炭田

山本作兵衛翁が生まれた1892年(明治25 年)は、筑豊炭田の出炭量が100万トンを突破した年です。そして、わずか3年後(明治28年)には倍の200万トン、そのまた3年後(明治31年)には300万トンと、筑豊炭田の出炭量は軒並み増加していき、全国出炭量の半分を筑豊炭が占めるようになります。

日本最大のエネルギー庫としての筑豊の地位が確立されたこの時期に、筑豊の地で産声をあげた作兵衛翁にとって、炭坑とかかわらない生活を送ることは、不可能だったに違いありません。事実、作兵衛翁は7歳の頃から兄とともに炭坑の仕事を手伝うようになり、早くも炭坑とかかわっていきます。
日清・日露両戦争を経て、石炭の重要性が益々高まっていく中、1908年(明治41年)、作兵衛翁は山内坑で先山(さきやま)となり、一人前の炭坑労働者として、炭坑に従事していきます。
作兵衛翁が本格的に炭坑にかかわってきたこのころ、筑豊炭田には大手炭坑を中心に、深部開発のために大型竪坑が次々と開削されていきます。田川市石炭記念公園に残る竪坑櫓と二本煙突も、このころ築造されたものです。

しかしながら、作兵衛翁は最後まで大手炭坑に従事したことはなく、筑豊の中小炭坑を点々と移っていき、渡り歩いた炭坑は21を数えるといいます。 

 

石炭採掘の変遷

作兵衛翁が描いた炭坑記録画は、明治中期から大正、昭和戦前期までの炭坑の様子を描いています。

採炭方式でいうと、そのほとんどが「残柱式(ざんちゅうしき)」と呼ばれる、明治から大正にかけての方法を中心に描いています。
「残柱式」は、天井の圧力を分散させるために、炭柱を残して炭層を採掘する方法です。記録画の中で、男性と女性が二人一組となり、傾斜のついた炭層を人力で採掘している様子がそれです。
この「残柱式」は、石炭をある程度残す必要があり、また通気の循環が制限されるため、大手の炭坑では明治末ごろから、「長壁式(ちょうへきしき)」という方法に転換していきます。

「長壁式」は、炭柱を取り除いて広い炭壁をつくり、数十人で採炭の作業にあたるものです。採炭量が増加する反面、天井を支える充填設備にコストがかかることから、小さい炭坑では導入できないところもありました。
作兵衛翁の炭坑記録画には、この「残柱式」と「長壁式」を折衷した方法も説明されていますが、機械を導入した本格的な「長壁式」の採炭方法が描かれているのはほんの数点に過ぎず、ほとんどが「残柱式」の説明であることは、作兵衛翁が大手の炭坑に在籍せず、比較的中小の炭坑に従事していたためです。 

 

炭坑の機械

筑豊の炭坑では、1881年(明治14年)、目尾(しゃかのお)炭坑(現飯塚市)で初めて蒸気ポンプ(スペシャルポンプ)による揚水が成功しました。以後筑豊の炭坑では、多種多様な機械を積極的に導入していきます。

機械化による炭坑の近代化は、急激に増加する石炭の需要に応えていきます。
ところで、作兵衛翁は鍛冶工の経験があったことから、炭坑の機械を非常に細かく描写していることが大きな特徴です。

ネジに至るまでの細部の描写はもちろん、ポンプや巻揚機などの動力が、蒸気から電気に変遷する過程を詳細に描いています。

導入当初は日本において最新式だったスペシャルポンプについても、作兵衛翁の時代では性能が悪い旧型品として紹介されています。

明治期の機械の写真類があまり残されていない現在において、機械に詳しい作兵衛翁の詳細な解説は、炭坑記録画の記録性の高さを表しています。 

 

炭坑の災害

地中深く掘り進む炭坑の仕事は、危険な災害と隣り合わせでした。

炭車(たんしゃ)の衝突や落盤事故をはじめ、筑豊のヤマでは、地下水の流出、ガス爆発、炭塵(たんじん)爆発の大災害にしばしば見舞われます。
各炭坑では、災害を事前に予防する安全策がとられてきました。これは、幾多の炭坑災害の経験によるものであり、発生原因の調査研究から、事故の予防策が講じられてきました。

炭坑記録画の代表的なものに、ガス爆発の場面があります。これは事故の悲惨さを描写しているのみならず、安全灯によるガス検定をも説明しています。

1989年(明治32年)6月15日、豊国(ほうこく)炭坑(現糸田町)で発生した、死者210名を出すガス爆発事故は、裸火のカンテラ(坑内照明具)によるガスの引火が原因であることがわかりました。その対処法として、後に火を囲った安全灯で、ガスの量を検定するようになったということを解説しています。
ちなみに安全灯は、その後開発が進み、多くの型式が作り出されていきます。そして一般的には、昭和に入ると帽子にランプを取り付けた電気のキャップランプに変わっていきます。したがって、作兵衛翁の記録画で、キャップランプを被る人物が登場するものは、主として昭和戦前期の場面を描いていることになります。
炭坑の保安と生産は両輪の輪。大事故を教訓に、炭坑の災害を未然に防ぐ技術が開発されていく様子を、炭坑記録画は説明しています。

 

 大正時代と米騒動

大手炭坑で築造された大型竪坑により、大正時代に入ると筑豊炭田は成熟期を迎えます。
このころ作兵衛翁は、麻生系の炭坑や製鉄所直営炭坑で、鍛冶工や採炭夫として働き、炭坑の経験を積んでいきます。

1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦により、日本は好不況の波にさらされます。もちろん、経済事情に大きく左右される石炭産業も同様です。

1918年(大正7年)7月、暴騰する米価に対し、富山県で烽火(ほうか)があがった「米騒動」が全国各地に飛び火し、日本近代史上の大事件となりました。

米騒動は炭坑にも波及し、筑豊でも同年8月、峰地(みねぢ)炭坑(現添田町)で賃上げ要求が暴動に転じたのが契機となり、筑豊各地にも広がっていきます。

作兵衛翁の炭坑記録画で、筑豊のヤマで起こった米騒動が枚数をかけて取り上げられていることは、作兵衛翁自身の関心の高さを表しています。実際、作兵衛翁の兄も米騒動に加担したという理由で3か月ほど拘束されており、作兵衛翁も米騒動の渦中に巻き込まれていたようです。

歴史の教科書にも記述されるような日本史の一コマが、作兵衛翁自身が実際に体験した出来事として記録画に描かれていることが、ユネスコ世界の記憶(世界記憶遺産)登録において、歴史的な真正性が担保された大きな理由となりました。

 

昭和の筑豊、そして閉山へ

1940年(昭和15年)、太平洋戦争開戦前後の増産運動により、全国5,631万トン、筑豊2,049万トンと、史上最高の出炭量を記録します。

この年、作兵衛翁は日鉄二瀬(ふたせ)出張所稲築坑(現嘉麻市)から、位登炭坑(現田川市)へ転坑し、生活の場を田川へ移します。

戦争が激化するにつれ、石炭の増産が重要課題となる一方で、若い労働力が戦争にとられるという矛盾が生じた中、熟練の技術者として、作兵衛翁は位登炭坑の経営を支えます。

終戦後、日本復興のエネルギーとして石炭が重要視され、筑豊の炭坑も息を吹き返しますが、昭和20年代から始まったエネルギー革命や石炭不況の影響で、筑豊のヤマは次々と閉山していきます。

作兵衛翁が在籍した位登炭坑は比較的小規模なヤマであったため、1955年(昭和30年)には閉山してしまい、それに伴って、作兵衛翁の約半世紀に渡る長い炭坑生活も幕を閉じました。

昭和30~40年代、ヤマの灯が消えゆき、ボタ山などのかつての風景が失われていく中、作兵衛翁は筑豊炭田の記憶を後世へ残そうと筆をとり、炭坑記録画の制作にとりかかったのです。

 

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