東に香春岳、西に船尾山、そして南には英彦山を主峰とする山々が並び、北を除き三方を山に囲まれた田川市。
地形上は英彦山を源流とする中元寺川、および彦山川の流れによって下流の平野部と結ばれています。
はるか遠い歴史のあけぼの、わたしたちの祖先は食料や水を得るのに便利な川沿いに居を構えました。やがて文明は川をさかのぼって流域に伝えられ、この地にもムラやクニが生まれます。こうして時代とともに、様々な文化や情報が尾根を越え、峠を越えて伝えられる交流の歴史が始まります。
日本史の黎明期といわれる縄文時代。田川市においても、縄文時代後期の土器や石器類が東町や糒、弓削田から出土しており、早くもその頃からこの地では狩猟、採集を主とする原始的な社会が営まれていたことを物語っています。
本格的な農耕の時代である弥生時代の住居群は下伊田遺跡を中心に、彦山川・中元寺川流域の標高30~40メートルの台地上から見つかっています。そこから発見された土器には、西日本における前期弥生式土器の総称である遠賀川式土器のうちでも、出土地の名をとって下伊田式土器と呼ばれるものが含まれています。出土した土器の中には、底に籾の跡を残すものがあり、田川においてもそのころには水田耕作が始まっていたと思われます。
時代は下り、古墳時代。市内には、直径80メートルと県内でも有数の大きさを誇るセスドノ古墳(県史跡)をはじめ、位登古墳、夏吉古墳群といった規模の大きい古墳が見られます。これはいくつかの氏族国家がこの地に生まれていたことを示すものです。『日本書紀』には、大和朝廷の勢力が九州に及び始めたころ、対抗する氏族の首長が「高羽の川上に居り」との記述があり、これが田川の名が文献にでてくる最初とされています。
↑ 下伊田遺跡・セスドノ古墳から出土した土器や銅剣・馬具
さて、大和朝廷による国家統一がなされて以降、田川地方が古代における交通、および信仰の要衝だったことを物語るのが市の東にそびえる香春岳と天台寺跡です。香春は古くは鹿春と書き、この山で銅の採掘に従事した渡来人の集団が新羅神を祀ったと考えられる聖なる山。また、天台寺(上伊田廃寺)は白鳳時代に創建されたといわれる古刹で、寺跡や出土した瓦には新羅文化の強い影響がうかがえます。この寺は最澄(伝教法師)との関係も深く、『叡山大師伝』によると、最澄が入唐に先立ち、香春岳(香春神社)に参り、帰国後再びこの地を訪ね、天台寺を天台別院とし、この地方にも18もの寺を創建したといわれます。ツツジの名所として知られる成道寺もその一つです。
田川地方は古くから豊前の国府と大宰府を結ぶ要衝。田川と筑前を結ぶ道は糸田越えと金国山麓を通る二筋があり、古代の官道もこのいずれかを通っていたものと考えられています。のち、荘園時代に入ると園内の村と村を結ぶ道が発達していきます。中でも北の香春岳、南の英彦山を結ぶ道はこの地の二大宗教拠点を結ぶ幹線でした。これらの道が交わる田川地方は信仰と文化の交流地帯であったということができるでしょう。
白鳥神社
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白鳥神社絵馬
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白鳥神社絵馬
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位登八幡神社
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天慎寺
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天台寺跡から出土した軒丸瓦
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明治・大正・そして昭和、日本の近代化を担い駆け抜けた田川
日本近代産業発展の原動力となった「石炭」の産出地であった筑豊炭田は、明治中期より日本有数の石炭産地としてクローズアップされ、仕事を求めて全国から移住者が訪れ、活気を呈していました。
明治33年、三井田川鉱業所が設立されると、移住者はさらに倍加し、炭坑のまち・田川は大きく発展していったのです。
大正6年には全国の出炭量2290万トンのうち筑豊炭田が1148万トンを産出し、なんと全国出炭量の50%を占めるまでになっていました。
石炭産業が隆盛期にあった昭和18年11月3日、伊田町と後藤寺町が合併して田川市が誕生し、昭和30年4月5日猪位金村が編入して現在の田川市になりまし た。
昭和30年代に入ると石炭産業にかげりが見え始め、第二次世界大戦後の復興期まで日本経済を支え続けた石炭は、エネルギー革命によって石油にその座をあけわたし、昭和39年には三井田川鉱業所が閉山し、昭和45年には、市内からヤマの灯が消えました。
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