世界記憶遺産に登録されたのは、山本作兵衛翁の炭坑記録画589点と日記や雑記帳、原稿など108点からなる697点。
筑豊の炭坑とともに生まれ育ち、そして生きた作兵衛翁。絵とお酒をこよなく愛し、そして家族を愛しました。
その想いは確かに子孫に受け継がれています。
加藤清正人形に魅せられ
山本作兵衛翁は、1892年(明治25年)、嘉麻郡(明治29年に嘉穂郡)笠松村鶴三緒(現飯塚市)で、遠賀川の川舟船頭であった、父・福太郎、母・シナの次男として生まれました。
1899年(明治32年)、石炭の鉄道輸送開始に伴い、仕事量の減りつつあった川舟船頭の職を捨てた父に連れられ、一家で上三緒炭坑に移住。7歳から兄とともに炭坑に入り父の仕事を手伝いました。
翌年、弟・春吾が生まれ、その初節句にもらった極彩色の加藤清正人形に心酔し、繰り返し写生していたといいます。
子守や仕事の手伝いで学校へ通えない日が続きましたが、学校では習字の時間が楽しみで、先生の目を盗んで絵を描いていたほど絵が好きでした。
また、12歳の頃には、粗末な西洋紙で源平合戦などの絵本を作り、近所の子どもに売って、画材や食べ物を買っていました。
1904年(明治37年)、13歳で山内炭坑のツルバシ鍛治に弟子入り。1906年(明治39年)に山内炭坑の炭坑員となり、以後、採炭員や鍛冶工員として58年にわたり筑豊各地の炭坑で働きながら、日記や手帳に炭坑の記録を残しました。
「絵の書き始め」
過酷な炭坑労働
作兵衛翁は、当時を自著で次のように振り返っています。
「その当時の採炭夫の仕事ほどみじめなものは、おそらくこの世にありますまい。朝は2時、3時に起きて入坑し、10時間も12時間も働くのが、きわめてあたりまえでした」
「一生、貧乏つづきでした。しかし、明日の米代がのうても、悔やんだことだけはありません。これ以上は働かれんほど働き通してきたのだから、それでもなお米代もないとすれば、おれの責任ではのうて、外の責任だと思うておりました」(「画文集 炭鉱(ヤマ)に生きる 地の底の人生記録(山本作兵衛著、講談社)」から抜粋)。
また、当時の生活は、生活苦もさることながら、死の恐怖と隣り合わせでした。ひとたび坑内にさがると、いつ落盤するか、ガス爆発するか、出水するかわかりません。そうした生活の中で炭坑の人々は信仰や迷信にすがったり、縁起を担いだりしていました。
「昔ヤマの人(きらわれる汁かけ飯)」
1957年(昭和32年)、弓削田長尾本事務所の宿直警備員として働き始めた作兵衛翁。夜警をしていると戦死した長男のことばかり思われると、この頃から気を紛らわせるために再び絵筆を取りました。
そして、「子や孫に炭坑の生活や人情を残したい」と、自らの経験や伝聞をもとに、明治末期から戦後にいたる炭坑の様子を墨や水彩で描くようになりました。
作兵衛翁は、次のような詩を残しています。
~ボタ山よ 汝人生のごとし 盛んなる時は肥え太り ヤマ止んで日々痩せ細り 或いは姿を消すもあり ああ 哀れ悲しき限りなり~
消えゆく炭坑と自らの人生を重ね合わせたのでしょうか。1984年(昭和59年)、老衰のため92歳で亡くなる直前まで描き続け、作品数は約2千点にも及びました。
作兵衛翁は、美術を誰かに学んだわけではなく、絵はまったくの独学でしたが、炭坑の様子や細々とした作業、仲間の生活ぶりなどについて、墨や水彩絵の具などで生き生きと描写しています。
「ボタ山とボタ函 スキップ」
作兵衛翁の最後を看取った三男の照雄さんは「父はよく酒を飲んでいましたが、酒に飲まれることはありませんでした。誠実で正義感が強く、庶民的な親父でした。自分が20歳くらいのとき、友人宅に行ったまま家に帰らないことがあったのですが、日記に「照雄3日帰ラズ」と書いてあり、後で読んで涙が出ました。酒と絵が人生で『人生をまっとうした』という言葉がぴったり当てはまる人でした」と語りました。
孫の緒方惠美さんは、幼い頃に話し掛けても熱心に絵を描き続ける祖父の姿が忘れられないと話します。音楽の道を志し、行き詰ったときには祖父を思い浮かべ、自らを叱咤したという惠美さん。
「じいちゃんはすごい。すべてのものに日付や由来を記していました。お金のために描かなかったし、うそを全く描かなかった。その絵が世界に認められてうれしい。田川・筑豊・日本の人々が、行政も大学も企業もボランティアも、専門家も素人も、一緒になって仲良く祖父が残してくれた宝を新しく未来のためにつなげていけることを、心から願い祈っています」と話しました。
※このページは、広報たがわ平成23年9月1日号に掲載された内容を基に作成しています。
→広報たがわ平成23年9月1日号