1940年(昭和15年)、太平洋戦争開戦前後の増産運動により、全国5,631万トン、筑豊2,049万トンと、史上最高の出炭量を記録します。
この年、山本作兵衛翁は日鉄二瀬(ふたせ)出張所稲築坑(現嘉麻市)から、位登炭坑(現田川市)へ転坑し、生活の場を田川へ移します。
戦争が激化するにつれ、石炭の増産が重要課題となる一方で、若い労働力が戦争にとられるという矛盾が生じた中、熟練の技術者として、作兵衛翁は位登炭坑の経営を支えます。
終戦後、日本復興のエネルギーとして石炭が重要視され、筑豊の炭坑も息を吹き返しますが、昭和20年代から始まったエネルギー革命や石炭不況の影響で、筑豊のヤマは次々と閉山していきます。
作兵衛翁が在籍した位登炭坑は比較的小規模なヤマであったため、1955年には閉山してしまい、それに伴って、作兵衛翁の約半世紀に渡る長い炭坑生活も幕を閉じました。
昭和30~40年代、ヤマの灯が消えゆき、ボタ山などのかつての風景が失われていく中、作兵衛翁は筑豊炭田の記憶を後世へ残そうと筆をとり、炭坑記録画の制作にとりかかったのです。
「太平洋戦時中の出炭・増産」
※このページは、広報たがわ平成23年9月1日号に掲載された内容を基に作成しています。
→広報たがわ平成23年9月1日号