大手炭坑で築造された大型竪坑により、大正時代に入ると筑豊炭田は成熟期を迎えます。
このころ山本作兵衛翁は、麻生系の炭坑や製鉄所直営炭坑で、鍛冶工や採炭夫として働き、炭坑の経験を積んでいきます。
1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦により、日本は好不況の波にさらされます。もちろん、経済事情に大きく左右される石炭産業も同様です。
1918年(大正7年)7月、暴騰する米価に対し、富山県で烽火があがった「米騒動」が全国各地に飛び火し、日本近代史上の大事件となりました。
米騒動は炭坑にも波及し、筑豊でも同年8月、峰地(みねぢ)炭坑(現添田町)で賃上げ要求が暴動に転じたのが契機となり、筑豊各地にも広がっていきます。
作兵衛翁の炭坑記録画で、筑豊のヤマで起こった米騒動が枚数をかけて取り上げられていることは、作兵衛翁自身の関心の高さを表しています。実際、作兵衛翁の兄も米騒動に加担したという理由で3カ月ほど拘束されており、作兵衛翁も米騒動の渦中に巻き込まれていたようです。
歴史の教科書にも記述されるような日本史の一コマが、作兵衛翁自身が実際に体験した出来事として記録画に描かれていることが、世界記憶遺産登録において、歴史的な真正性が担保された大きな理由となりました。
「 ヤマの米騒動(警官総動員)」
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※このページは、広報たがわ平成23年9月1日号に掲載された内容を基に作成しています。
→広報たがわ平成23年9月1日号