地中深く掘り進む炭坑の仕事は、危険な災害と隣り合わせでした。
炭車(たんしゃ)の衝突や落盤事故をはじめ、筑豊のヤマでは、地下水の流出、ガス爆発、炭塵(たんじん)爆発の大災害にしばしば見舞われます。
各炭坑では、災害を事前に予防する安全策がとられてきました。これは、幾多の炭坑災害の経験によるものであり、発生原因の調査研究から、事故の予防策が講じられてきました。
炭坑記録画の代表的なものに、ガス爆発の場面があります。これは事故の悲惨さを描写しているのみならず、安全灯によるガス検定をも説明しています。
1899年(明治32年)6月15日、豊国(ほうこく)炭坑(現糸田町)で発生した、死者210名を出すガス爆発事故は、裸火のカンテラ(坑内照明具)によるガスの引火が原因であることがわかりました。その対処法として、後に火を囲った安全灯で、ガスの量を検定するようになったということを解説しています。
ちなみに安全灯は、その後開発が進み、多くの型式が作り出されていきます。そして一般的には、昭和に入ると帽子にランプを取り付けた電気のキャップランプに変わっていきます。したがって、作兵衛翁の記録画で、キャップランプを被る人物が登場するものは、主として昭和戦前期の場面を描いていることになります。
炭坑の保安と生産は両輪の輪。大事故を教訓に、炭坑の災害を未然に防ぐ技術が開発されていく様子を、炭坑記録画は説明しています。
「ガス爆発と検定灯」
→大正時代と米騒動
※このページは、広報たがわ平成23年9月1日号に掲載された内容を基に作成しています。
→広報たがわ平成23年9月1日号