田川のまちを荘厳な姿で見守り続ける伊田竪坑櫓と二本煙突。
力強さと美しさを兼ね備えた近代産業遺産の背後にあるものは、石炭にかかわった多くの人たちの物語。
炭都田川のシンボル
旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓と同第1・第2煙突(二本煙突)は、日本の石炭を半数近くも賄った筑豊の貴重な炭鉱遺産です。
現存する明治期のものとしては国内最大級の規模を誇り、平成19年10月、国登録有形文化財(建造物)に登録され、同年11月には経済産業省から近代化産業遺産に認定されています。
現在では都市公園として整備されている石炭記念公園は、かつて、筑豊随一の炭鉱であった三井田川鉱業所伊田坑の跡地です。両遺産は、深部採炭を目的とした第1竪坑(田川8尺層用、深さ約314m)と第2竪坑(田川4尺層用、深さ約349m)に付随する設備として当時のまま保存されており、今でも炭都田川のシンボルとして人々の心の拠り所となっています。
機能の中に見える美
伊田竪坑櫓は竪坑上部に立つ施設で、I形鋼を使用した4本の鋼柱等からなる鋼構造体の頂部に、2基の大型ヘッドシープ(滑車)を据えつけています。高さ約28.4mを測る、イギリス様式のバックステイ形。構造材は細めで、合理的で無駄の無い優美さを感じます。梁にはスコットランドのメーカー名の刻印が残され、彼地の強い影響がうかがわれます。
二本煙突はボイラーの蒸気排煙用で、高さ約45.45mを測る煉瓦造。21万3千枚の耐火煉瓦が使用されており、うち18万1千枚がドイツ製で3万2千枚が国内産だと言われています。特に、西側の第2煙突は基壇が8角形で、その上部には軒蛇腹のような煉瓦の追出しがなされており、建築的装飾の配慮が見られ、格式や様式を重視した明治期の特徴が残ります。
地下深く横たわる炭層へ
伊田竪坑の開削には、当時としては最先端の技術が導入されました。その完成は、製鉄所二瀬と三菱方城の竪坑とともに、明治期の日本3大竪坑と称され、日本鉱業史における画期となりました。
しかし、伊田竪坑の開削には、想像を絶する多くの試練が待ち構えていました。伊田の地下深部に眠る良質な石炭に目をつけた三井鉱山は、伊田に竪坑を開削することを決定。開削工事は佐伯芳馬・田邊儀助・小林寛の3人を中心に進められました。小林は工事を打診された際、「妻と相談させてください。竪坑工事は戦争と同じですから」と即答せず、熟考した上で工事に立ち向かう決断をしたといいます。後年、小林が残した「重錘寄贈記」には、工事中の様々な難局が記されています。
そして明治43年(1910)9月、第2竪坑竣工をもって、実に5年3カ月の長期にわたる戦いが終結しました。伊田竪坑の完成は、明治期における深部竪坑の金字塔として筑豊炭田の繁栄を約束するものとなりました。
世界へと発信する炭都の遺産
筑豊を代表する貴重な近代化遺産である伊田竪坑櫓と二本煙突。建造物としての価値はもちろんですが、本当に素晴らしいのは、それら近代化遺産にかかわって、日本と筑豊の近代化を支えた人々であります。近代化遺産の背後にある、石炭産業に従事した人々の歴史、すなわち珠玉の無形遺産もまた、後世へと受け継ぐべき、貴重な近代化遺産です。
二本煙突は平成20年に建造から百年目を迎えました。現在、田川市では両遺産をまちづくりに積極的に活用しています。日本のみならず、世界史的にも意義を持つ、筑豊の石炭。田川の新しい挑戦が、始まろうとしています。