繁栄を極めた炭都
北部九州を縦貫する母なる河・遠賀川
古来より享受してきた大河の恵み。
その最大の贈り物は流域に埋蔵される豊かな石炭であった。
近代日本の発展とともに
筑豊における石炭の発見は、言い伝えによると文明10年(1478)です。石炭は江戸時代には蒸し焼きにした「ガラ」として都市部の燃料とするほか、18世紀には瀬戸内海の塩田地帯で製塩の燃料とされました。
明治時代以降、石炭の需要は急激に高まり、蒸気機関の燃料や製鉄の原料など、自前のエネルギーとして日本の近代化を推し進める原動力となりました。
全国土のわずか0.3%に満たないこの狭隘の地は、やがて国内最大の産炭量を誇る「筑豊炭田」となりました。田川市は石炭産業によって発展した地方都市であり、その歴史はまさに日本の近代史そのものと言えます。
三井田川炭鉱の創業
明治維新後の石炭産業は藩政時代の枠組みから解放されたものの、筑豊では小坑区が乱立し弊害を招いていました。これに対し政府が坑区を拡大した「選定坑区」を実施したため、筑豊には三菱・住友・古河などの大手中央資本が進出。なかでも田川郡の豊富な石炭に高い関心を寄せていたのは、他よりも一歩遅れて筑豊進出を果たした三井鉱山でした。
明治33年(1900)、三井鉱山は田川採炭組から伊田・弓削田等の坑区を買収。同四三年、伊田竪坑二本を開削して規模を拡大、三井田川炭鉱の確固たる基盤を築きました。大正七年(1918)、三井田川鉱業所と改称し、鉱員数1万6438人、職員数571人(大正8年)を擁する筑豊炭田を牽引する大炭鉱となりました。
炭都田川の形成
石炭産業の発達はインフラの整備と人口の集中を促進させました。筑豊最大の炭鉱を擁する田川もまた、炭都としての景観を呈するようになりました。
後藤寺町(旧弓削田村、明治40年町制施行)と三井田川伊田竪坑の操業で発展の軌道にのった伊田町(旧伊田村、大正3年町制施行)が合併、昭和18年11月3日、人口7万3千人を超える炭都「田川市」が誕生しました。
その後、昭和30年には猪位金村を編入合併して人口も10万人を超え、筑豊の中核都市となりました。
花開く文化そして閉山
石炭産業の影響は教育・文化にも及びました。三井田川は、私立学校「三井田川尋常小学校」(現田川小学校)を設立し、特色ある教育を行いました。また、田川へは中央からの先進文化がダイレクトに流入し、炭坑(ヤマ)の文化の母体となりました。しかし、昭和30年代に始まるエネルギー革命の波には抗えず、三井田川鉱業所は昭和39年に閉山、そして昭和45年には、市内からヤマの灯が消えました。
閉山から40年が過ぎ、かつての炭都の面影は失われつつあります。しかし、石炭が育んだ数々の遺産は、まちのあらゆる場所に今も息づいています。
炭坑(ヤマ)の語り部
田川市石炭・歴史博物館では、炭坑(ヤマ)の実情を後世に残すため、平成20年4月から「炭坑(ヤマ)の語り部事業」を実施しています。
ホームページでは、この映像化された語り部の話の一部を公開しています。
詳細はこちらをご覧下さい。⇒「炭坑(ヤマ)の語り部」

